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ビラ 靖国 表現の自由 自由 死刑 憲法 三権分立 


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Author:片目兄さん
性別/おとこ
生まれた年/1978
出身地/さいたま
身体/隻眼


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光市被告謝罪の意思。生きた上では償いではない。

<光母子殺害>「命尽きるまで謝罪」元少年の手紙紹介
4月12日21時22分配信 毎日新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080412-00000092-mai-soci

「命尽き果てるまで謝罪を続けていきたい」

手紙には「生きていたいということが本村さんをどれだけ苦しめているかを知ってしまったぼくは、身の置き所がない」などと書いていたという。

「私にとって大事なのは判決日ではない。14日(事件当日)です」


過去にあるこの男の被害者に対するおろかな言動をかんがみる限り、反省しているかどうか不明だが、真に反省していることが証明できたとしても死刑を免れる根拠にはならない。
反省することは、人として当然の最低限のことに過ぎない。
確かに反省がなく被害者や世間を攻撃する、自分の犯した行為を正当化するなどしている被告には相当な重い罪があるために重い罰を与えることが必要になる。
これを前提にすると、この被告とは違い反省しているために罪は軽く解釈され酌量され死刑ではない死刑よりも軽い罰が選択されることはなんら根拠を持たない。
なぜなら重罪を犯した人間にはすでに死刑が相当といえる罪があるのだから、その罪を犯した後に反省していないことはこの罪をより罪であると感じさせるものであるが、反省していることの冷静さ、他者への配慮はは本来であれば罪を犯す前にあるべきであり、罪を犯した後にあっても反省していない人間に比べれば「まだマシ」というレベルに過ぎず、罪に対する罰の見地から罰することになんら関わるものではない。
主観的な寛容を強要する前提がある限りにおいて、反省していない人間との比較から減刑にいたるのである。
この寛容の強要は、加害者つまり事件という悪魔の住む事象の創造の神である人間へのものに過ぎず、ここには本来的に寛容にある暖かさが、その太陽が加害者に向けられるに限られ被害者に対しては冷酷な非常に悪魔的なものになることから、これは平等性が絶対とされる人権を語ろうが、その他に国家への攻撃を行おうがこれ自体罪であることに変わりはない。

もしも彼が真に反省しているのであれば、死刑執行のその日までその気持ちが失われないことを祈るばかりだ。
被害者が死を求めていることだけではない。他者を不当にも死に至らしめそのことに反省することは自らの死をもって償う以外に償う方法などない。
やはりどう考えても殺された被害者・・・・被害者は反省することも反省せずに誰かを批判することも反省とは何か考えることも何もできない・・・のことを考えると、その被害者への償いが生きる上で行えるものであるはずがない。

【2008/04/14 17:47】 | 死刑 | TRACKBACK(0) |


映画「靖国」上映中止に関する藤井誠二氏の見解を批判

藤井誠二のブログ 映画「靖国」に連れてって。
http://ameblo.jp/fujii-seiji/entry-10085457660.html

アクセスでもしゃべったが、新聞各紙の論説などはこの問題を「表現の自由」の侵害だと書いているけれど、ぼくは違和感を否めない。
憲法は国家権力へ対しての国民の命令であり、私人間を縛るものではない。あくまで国家権力の暴走の抑制が憲法の本質だ。


彼の憲法の存在意義解釈は立憲主義であるが、なぜに憲法が立憲主義によるものであるとすることから、他所にある主張が誤りであるのか不明である。

だから日教組の集会をプリンスホテルが拒否した問題もしかり、靖国上映中止問題を憲法の問題としてとらえるのはいささか筋違いだと思う。

これはプリンスホテルと日教組、映画館・配給会社と右翼との関係の中での問題だ。

国立・公立の映画館や施設が一方的に拒否をしたのなら、それは「表現」に対する侵害という理屈もなりたとうが、安易にこの手の問題を憲法問題にしてしまうのはある種の思考停止である。

ただ、ホテルと映画館は「ちがう」。映画館は言論機関の一つなのだから、日教組を断ったホテルの理屈と同等に考えるべきではない。

街頭宣伝カーを走らせて大音量でならすなどの「妨害」や「抗議」がたとえば迷惑条例や威力業務妨害、脅迫にあたるかどうかを検討し、刑事事件に抵触するのであればそちらで対応する性質の問題ではないか。  


まず、憲法を立憲主義から、私人間を拘束せずに国家権力の暴走の抑制とすることが誤りであるし、こう解釈するのであれば憲法はこの件にかかわることになる。

人間は、自分の利益追求を行う自由な主体であるために、他者の利益、権利をも侵害してしまう。
この自然状態を放置することは、人間が人間本性にある利益追求の欲望を根拠に、人間がこれもまた必要とする公共性を喪失することという矛盾を正当化することになるから、国家は国に帰属する国民の権利を制限する権力を持つことで、この人間崩壊を防ぐ役目を果たすこととなる。
しかし同時に、国家が権力を不当に行使することは、これもまた人間の崩壊をもたらすこととなるために、国民による国家の権力抑制、正しい権力行使のみを行わせるために憲法を必要とする。
立憲主義とはこの後半の部分である。しかし、前半を無視し後半のみを存在させることは、国家権力の国民に対する不当な行使を制限することに尽きるために、国民が国民に対して不当な権利行使を行うことを憲法は制限できないことになる。

「プリンスホテルと日教組、映画館・配給会社と右翼との関係の中での問題」として国民間の問題であるとして国家を除くことは明らかに、この問題が国民の間における自由権の行使による対立である・・・自然状態・・・であることを理解していない。

法の下で平等であるこれら国民の間の問題を憲法という国家権力が介入せずにどのように問題解決するのであろうか。
それどころか彼は法の下の平等という民主主義、国民国家の存立として絶対であるものさえ認めない。

「国立・公立の映画館や施設が一方的に拒否」することは、国家が国民の命令に従わないことであり、自由権の侵害であるかのように見せつつ、安易に使うなと矛盾したことを付け加える。なぜに侵害となるのか根拠の提示がないために表現の自由を根拠にする批判者と同じく安易である。

映画館は言論機関というが言論機関とはなにか。ここも不明瞭であるが、想像するに映画作成者の表現の自由の行使にホテルとは違い深く関係するという解釈だろう。
しかし、映画館もホテルも同じく営業者であり、営業の自由・・・職業選択の自由に含まれる・・・を持ち、他者の利用を拒否することができる。憲法には公共の福祉に反しないことという制限があるが、プロパガンダ映画も政治的集会も公共性が軽薄な私的利用に過ぎない。靖国神社という宗教施設や集会が対象とするものは公共性があるが、これが直ちに靖国を扱う映画、政治的集会が公共性を持つということにはならない。

映画館が言論機関であれ、映画館の人間にも表現の自由は存在する。
映画館が言論機関であることから、映画館が上映中止してはならないのであればこれは強要に他ならず、映画制作者の自由権の行使(積極的自由)が映画館の人間の自由権(消極的自由)を侵害することになろう。
映画館が言論機関であるとすることが、映画館の人間が他者(映画作成者)の表現の自由に配慮するべきであるとする心がけを示すのであれば、二つの誤りがある。
映画館もホテルも映画作成者も藤井氏も僕も右翼も左翼も政治家も、みながみな他社の権利擁護に配慮せねばならない義務を持つことを言論機関にのみ強く求めるものであることと、憲法の介入を否定し心がけ程度のものを根拠にすることでは主張における定義付けさえ明確にならない。

右翼団体による妨害という暴力は明らかに不当であるが、彼は各種の法律を根拠にしながら、憲法という法律の上位に位置する権力を持ち合わせることを拒否することは不可思議でならない。
現行憲法には表現の自由であれば、これの制限が明記されないことから、明記されていないことを根拠に明記されていない自由権の行使が自分が思うがままにどこまでも通用すると信望するものが少なくない。そう安易な解釈である。
しかし、それでは右翼団体による暴力的妨害も表現であるから認めなければならないのだろうかという矛盾が生じる。暴力の行使はまさに自然状態にある人間でありこれを認めるものも同じである。

今は法律レベルに過ぎないもろもろの表現の自由の制限は、強迫性障害的な自由主義者でなければ認めるところであろう。
これは自然状態にあることを自覚せずとも、自然状態を放置することを万人の万人による闘争であることを知らなくても個別の経験により感じているから制限を受け入れるのである。このためにも明確な憲法における制限を記述する必要もあるだろう。

今回の映画靖国の作成者は中国人であるから、国民の権利を明記する表現の自由は日本国において彼にはなく、国民が持つ義務も国民が対象である。しかし百歩引いてこれを無視してもなお不当な権利侵害ではない。
上映中止の映画館以外の他所において上映が行えることひとつを持って否定されない。上映中止を行った映画館は、彼の表現の自由という権利を否定したのではなく、その権利行使を自分の映画館という空間において行使されることを正当にも拒否したに過ぎず、これはその空間における制限ではあるが、権利という絶対的に不可嬢にもつ権利自体の侵害というほどの否定には当たらない。

【2008/04/14 17:01】 | 憲法 | TRACKBACK(0) |


靖国神社、映画「靖国 YASUKUNI」に削除依頼

靖国神社が李監督らに削除要請=映画「靖国 YASUKUNI」
4月12日22時0分配信 時事通信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080412-00000100-jij-soci

同神社のホームページによると、境内での撮影許可手続きが守られていないだけではなく、その内容についても事実を誤認させるような映像が含まれていることから、問題映像の削除など適切な対応を求める通知を行った、としている。

これでは問題の映像が何なのか不明瞭だ。
最低限、靖国神社を移した部分は削除するべきだろう。靖国神社側がこのような不備が多い映画に使用されることを拒否することは常識的であるといってよい。政治の介入の次は宗教の介入と批判する者が出ることが目に見えるが。
稲田氏や有村氏の介入は健全なものである。
稲田氏は、公金である助成金が文化庁によりその使用目的に逸脱した使用のされかたであることから、助成金交付を批判した。

助成金はわが国の文化を育てこれを国民に広めるために、これに貢献する表現物に交付されるものであって、特定の政治プロパガンダの支援のためにあるものではない。
この映画の出演者には二名、靖国神社を訴えている人間が出演するなどの根拠から、明らかに目的外の交付となっており、
稲田氏が、国民から徴収した税金がもとである助成金の交付に介入することは政治介入であるが、国民の代表である政治家が国民から預かった税金が適切に扱われているかどうかを調べることは検閲どころか、最低限度の民主主義を根拠にする。稲田氏が保守・右派という思想を持つことのみに着目して批判することはこの民主的側面を無視したあげくに、交付金葉交付され製作された結果があり、稲田氏の介入がなくとも、右翼団体が抗議することは予測できるにもかかわらず、この助成金交付批判と上映中止を無根拠につなぎ合わせる批判は左翼による被害妄想のみを根拠とした攻撃にほかならず、公共性など微塵もない。

刀匠が出演を拒否したにもかかわらず、映画に出演する結果となり、有村氏がこれを批判することもまた、国民を代表する政治家による国民の権利擁護であり民主的である。
左翼思想、活動が決して国民の心を捉えることができない集団的独りよがりであることの証明である。

【2008/04/14 16:55】 | 左翼 | TRACKBACK(0) |


児童ポルノ単純所持正当化も児童ポルノ的アニメ規制の根拠も同じ

児童買春・児童ポルノ禁止法:アニメ規制は見送り 自民小委、慎重論強
毎日新聞 2008年4月11日 東京朝刊
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080410-00000144-mai-pol

同小委は、18歳未満の男女を写したポルノ画像などを収集する「単純所持」への罰則規定を設ける方針を決めているが、アニメなどへの規制には「被害児童が実在しない」などの慎重論が党内で強かった。

当然だと思う。
なぜに児童ポルノは制限されなくてはならないのかという前提を大きく変えるものであるが、アニメなどの規制客観的根拠に乏しい。

児童ポルノの禁止は、児童が性的な被写体にされることが権利侵害であるためである。児童を性的対象とする欲望を持つ人のために児童の権利侵害が行われることは、欲望を持つ限りにおける自由から逸脱した自由の拡大解釈であり、否定される。
権利侵害であることは、児童の成長過程における性的虐待が成人に比較し相当なダメージとなる加害行為であることを根拠にするが同時に児童は拒否する能力さえ持たない未熟さがあるために、成人が自由意志で性的被写体とされることの意思表明をすることとは同一のものと考えることはできないために、児童自身の意思を確認するまでもなく保護の対象とするものである。
単純所持は自ら製造せずとも、製造者・・・児童の権利の侵害者・・・による製造に間接的に肯定的にかかわる。このために製造は許さず所持は許すことは矛盾する。
また、娘の写真を所持することで逮捕されるという冤罪はない。娘の写真であることを証明することで疑いの根拠を反証可能である。
ポルノの定義があいまいであるという批判もあたらない。法律に定義がある。

児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H11/H11HO052.html

(定義)
第二条

一  児童を相手方とする又は児童による性交又は性交類似行為に係る児童の姿態
二  他人が児童の性器等を触る行為又は児童が他人の性器等を触る行為に係る児童の姿態であって性欲を興奮させ又は刺激するもの
三  衣服の全部又は一部を着けない児童の姿態であって性欲を興奮させ又は刺激するもの


これは明確な定義である。
一は、児童が「性交又は性交類似行為」という形でかかわることをいう。
二は、一に順ずるものをいう。
三は、一や二のように性交の類ではないものの、同じく性的な描写であることをいう。

「性欲を興奮させ又は刺激するもの」の解釈は個人差があるために定義できない、あいまいであるという批判は不当である。
児童に性欲を感じる人間があることとないことは個人差であるが、これはこの定義のできる以前から、自然に個人差があることという事実をただ表現するに過ぎず、なぜに個人差があるから認めるべきであるか、あいまいであるかを表現したものではない。
児童に性欲を感じる人間が興奮し刺激されるから、厳密には彼らが定義をできるが、これは興奮し刺激されることがあることを証明することである。また、刺激されず興奮しない人間がいることは、その人間は刺激されず興奮しないのであるから児童ポルノにかかわらないために彼らの価値観があることを根拠に、刺激される興奮する人間があることの否定には関係しない。
定義付けが不足しているといいつつ、解釈に個人差があることから性の自己決定などの自由を根拠として認めろと主張するのであれば、ただ単に児童ポルノを入手したい所持したいから認めろということと変わりなく、定義について答えたものにはならない。

児童に対する性欲がある

児童ポルノが必要であり所持したい

これを禁止する理由における定義

定義の解釈は個人差がある

児童に性欲を感じるという解釈がある

児童ポルノが必要であり所持できる

この論理は、一見個人差があるという客観的根拠があることから、ポルノの定義付けに客観的根拠が必要とされるために個人差を鑑みることが重要であると反論批判しながら、その個人差を鑑みる必要性の最大の根拠は「児童に対する性欲という主観に過ぎないものに対する配慮」というこの定義というテーマでの議論の前から存在する主観的根拠をこの議論に持ち出したに過ぎず、客観性を必要とする根拠に主観性を入れているという詭弁である。性欲という前提段階を結果を考慮する過程段階で客観的であるかのように装い、都合のよい結果(性欲がポルノを必要とするという前提からこれを満たすための結果)に導こうとする循環論法である。
このように児童に対する性欲がある人があるために個人差があることという客観的事実は前提に過ぎず、本来必要であることは、ポルノの単純所持という事実を正当化できる客観的理由の提示を行うことである。

しかし、アニメなどの規制を企むものたちは、明らかに児童を性的対象とする人への嫌悪、またその性的表現物に対する嫌悪という主観的に過ぎないものを根拠に、制限したがる支配欲を満たすために制限を押し付けるに過ぎないのではないだろうか。
上に書いたように児童ポルノは、児童を性的対象とする欲望がある人とはいえ、この主観的なもののためだけに他者の権利侵害をする自己中心性は否定されるために、同じく主観的なもののためだけにアニメなども制限する自己中心的欲望による他者の権利侵害は否定されなければならない。

【2008/04/12 16:28】 | 法律・法解釈 | TRACKBACK(0) |


反戦ビラ配布のために不法侵入することを「表現の自由」で正当化することはできない

ビラ配布:防衛庁官舎に立ち入り…3人の有罪確定へ
毎日新聞 2008年4月11日 15時49分
http://mainichi.jp/select/jiken/news/20080411k0000e040093000c.html

3人は「ビラ配り目的の立ち入りを有罪としたのは、表現の自由を保障した憲法に反する」と上告していた。

 1審・東京地裁八王子支部は04年12月、住居侵入罪の要件に当たるとしたうえで「正当な政治的意見の表明で、居住者のプライバシーを侵害する程度も低く、罰するほどの違法性はない」と3人全員を無罪(いずれも求刑・懲役6月)とした。

 これに対し2審は、官舎管理者が03年末のビラ配りを受け、敷地入り口などにビラ配りを禁じる表示をするなど明確に拒絶していたとして、「立ち入りが管理者の意思に反するのは明らか」と罪の成立を認定。「表現の自由は尊重されるべきだが、そのために他人の権利を侵害してよいとはならない」と判断して1審判決を破棄していた。


表現の自由を憲法第21条は保障する。
しかしここにはこの自由権の行使が無制限に保証されるとはない。
国民の権利として国民であるだけですべての国民にこの権利があると定めるものであって、個人に自由が無制限にあることを示してはいない。
まさしく、2審にある他者の権利侵害までも正当化できる権利ではない。
他者が拒否しない形で配布することは不可能だろうか。可能であればここで自由権を行使することはできるから、自由権の侵害とはいえない。
この件は特に、防衛庁官舎という反戦に組しないであろう人々が住む空間に反線ビラをまく行為であり、住人に許可を得るという他者への配慮など不要と考え攻撃的に主張すことが読み取れる。この自己中心性は直ちに不当である。
たとえ反戦活動により、今よりも平和な国になることで多くの人々が利益を得ることとなると予測しこれを目的に行動したとしても、目的のために手段は正当化されない。革命にある手段の正当化がことごとく否定されてきたことを学ぶべきだ。
押し付け平和論などは、平和を受け取る人々に対して、まっとうな議論を経ずに行う非民主的な行為であり暴力的でもあるから、今現在ある平和を乱し平和を求めることで矛盾している。
自由論に戻る。
自由を無制限に求めそれを行使することは必ず他者の自由を制限することになる。
自然状態において人間は自由を求め利己的になる生き物であるから、人間同士、自由が原因で対立し戦争になるとホッブスは言う。
このために人間の自由が他者に危害を与えないためにも、これを有効に制限する国家を必要とする。しかし国家という抽象的なものであっては恣意的に働く可能性を否定できない。
このために憲法で国家による国民への役割を明記する必要性がある。
現行憲法はいまだ詳細が解釈者により変わるために不備があると思うものの、この件も自然状態にある自由な主体といえる政治的主張に明け暮れた結果、他者の権利・・・その集合住宅に権利を持つ入居者のための共有地帯に対し、拒否する根拠(ビラ配布)で侵入したことで侵害したことが罪であることは明らかだろう。
また、「敷地入り口などにビラ配りを禁じる表示」があることは必要なことであるが、これがないことを根拠に侵入することはできない。法律は知らないから許されるというものではないだろう。

【2008/04/11 16:24】 | 裁判 | TRACKBACK(0) |


死刑に命令書は不要、人権重視の存置論、個別の件も批評

死刑>4人を執行 鳩山法相命令は3回目、計10人に
4月10日11時42分配信 毎日新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080410-00000005-maiall-soci

死刑執行は法相の命令が出なかったことによる約3年4カ月の中断を経て、93年3月に再開されたが、それ以後の執行数は計67人。再開以降でみると、昨年8月に就任した鳩山法相の執行数は長勢甚遠前法相と並んで最も多く、約2カ月に一度という異例のスピードで進んでいる。

法相の命令が出るか否かで執行までの日が決められることには違和感を禁じえない。
司法の場において熟慮に熟慮を重ねた結果、死刑判決が出たのであるから判決後速やかに執行を行うべきである。
法相を含めて立法の人間が熟慮を重ねて作成され維持される制度をもとに、司法の人間が裁判を行い判決を下した。
この判決後に法相の命令書によるサインを根拠に執行されることは、もう一度立法に戻っており三権分立の定義から見て立法の人間に権力が偏っているように見える。
立法による制度→司法による制度を根拠にした裁判から判決→行政である執行機関による執行が自然な流れであろう。

人は生まれながらに人権を持つことを根拠に死刑を否定する根拠はない。
人権を持つ者は加害者に限らず被害者を含めた社会を構成するわれわれすべてにあるから、人間はすべて他者の人権に配慮する義務を負うことで人権を相互補助により維持することができる。
加害者にも人権があるから死刑は不当論は、すべての人間に人権があるという前提を裏切り全体的人権論から個別的人権論に移行している。
全体に人権があるはずにもかかわらず人権侵害が行われたことでその全体性は崩れる。加害者という個別の人間がこの全体に背を向け被害者という個別の人権侵害を生み出したのであるから、われわれ全体の一部である個別の人間は一丸となってこの人権の全体性を乱す加害者に罰を与えることを求める。
この罰とは人権の停止となる死刑がふさわしいことは、被害者という個別の人権が侵害されこれを回復することが不可能であることの全体の悲観がこれを求めるものである。

人間には尊厳があるとするカントは、加害者にのみ教育刑のような応報のない罰を与えることは加害者の尊厳を損ねる差別であると解釈した。
すべての人間に尊厳があるからこそ、これを損ねる行為を犯した加害者に対して、われわれはすべての人間が罪を犯した際にふさわしい罰を与える必要から、彼にも例外なく応報による罰を与えるべきであるとした。

個別に見ていく。

坂本死刑囚。
自らの性欲の処理のために女性を強姦するだけでなく殺害する行為はあまりにも被害者の人権を軽視しており、この自己中心性には自らの人権の価値さえも理解できていないと見ることは自然である。
また、身代金要求により被害者以外に被害者を生み出し、性欲と金銭欲に負けるさまはすでに人間にあらず。
計画性がないから無期懲役という一審の判決は寛容をねじ込んだ科学性に欠けたものである。
計画性があることは否定されるべき罪のあるものである。これは罪を犯すための罪だからである。
これがないことは罪が軽いように思えるが、殺害などの罪という計画があってもなくても行える行為に計画性がないことが罪を軽減させる影響を与えることは無関係のものを無関係なものに当て込むことで価値のないものである。
またこのような考え方もできる。計画性のない殺害などの罪に死刑がふさわしいという定義であることが前提であれば、計画性があることは死刑以上の重罰を与えることが適切となる。(正しい死刑よりも重い罰がないため死刑が適切となる)この前提で計画性がないことが証明された場合は死刑が適切である。
このことから、どちらにしても前提に寛容が働くことを強制し、全体を犯した個別の罪に対し個別性を鑑みない不当な恣意が結果を先導しているとしか思えない。

中元死刑囚。
生命と金銭は生命のほうが重いはずであるにもかかわらず、金銭のために他者の生命を奪う人間に他者への人権の配慮があるはずがない。
この人間は、複数の人間を殺害し複数の人権侵害を行う。人権が重いものであればこの被告の人権を守るために死刑回避を口にすることは不可能である。
これは複数の人間を殺害した時には死刑がふさわしいことを認めるものであるがこれが被害者が一人であるときには死刑回避ができると認めるものではない。
一人の被害者であれ死刑がふさわしい。しかし、複数の人間を殺害する罪や殺害だけでなく遺体を切り刻む捨てるという行為がある場合は、死刑以上の重い罰がふさわしいが死刑以外に選択肢がないと妥協せざるを得ないということである。

岡下死刑囚。
これも、上記中元と同じように金銭目的で他者の生命を奪う凶悪な犯行であること、計画性の有り無しも同じである。

すべての被告に死刑がふさわしいと考える。

【2008/04/10 16:21】 | 死刑 | TRACKBACK(0) |



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